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自分史 Archive
アマチュア無線~プロ無線 そして衰退へ 第7回
- 2009年10月 5日 20:22test
- 自分史
15年位前の話ですが、まだ郵政省電波監理局といった頃です。
無線局の運用・保守の仕事に従事することになりました。私も選任されていたので「無線従事者」ということになります。固定局が100以上ありました。その統括といっていいでしょう。
技術的の保守は業者に委託していましたが、運用に伴う事務的作業が膨大でした。無線局の移設に伴う変更届そして場合によっては電監の検査になりますが、無線局の数が多いため一ヶ月に1局位の割合になります。そのために一ヶ月に一回は電波監理局に足を運びました。
何よりも5年に1度の「定期検査」これが大変でした。数が多いため毎年数十局を1週間位かけて検査を受けました。遠方の無線局では電監検査官と宿泊したこともありました。電監検査官は2人できます。大抵事務官と技官のコンビです。
その当時の検査官といったら「神様」みたいな存在に私には見えました。検査の時の宿泊先や昼食の手配、そして最終日のお土産まで考えていました。
何しろこの検査終了後すぐに「無線検査簿」に合格か指導の「判定講評」が行われるのです。
そのために気の使いようは並大抵ではなかったです。
そして最終日には飲食店での接待も行われることが多かったです。
事務の簡素化により、定期検査は認定業者による試験でよいことになり大幅に定期検査の受検
は軽減されました。
その当時の国の立入検査は外の省も似たり寄ったりだったのだと思います。
その後電波監理局は総務省に移管され名称も変更されましたが、その時には転勤していたので詳細はわかりません。
さてアマチュア無線ですが、その当時ローカルでは430NHz帯での交信が主流で「メインチャンネル」即ち呼出チャンネルがJARLの自主的バンドプランで作られました。
430MHZ帯はバンド幅が大きいため144MHz帯と比べて圧倒的にチャンネルが多く間違いなくQSOできました。レピータ運用も行いより遠方までクリアーに交信出来ました。ただ時間制限があったのが難でした。
クラブ局でのロールコールもありまして各局を順番に回していくのです。決まったチャンネルで決まった日時に定期的に行われました。自分のイベントやたわいもないQSO[も今では懐かしく思い出されます。
リグは初期にはYAESU 「FT720」 ハンディではICOM「IC03N」 モービル及びホームではYAESU「FT-3700H」を使用していました。 さすが430MHZ となるとロケーションにより感度は相当違います。
ハンディは覿面に影響を受けました。
その頃JARL終身会員(現在はないようです)となったのですが、皮肉にもだんだん疎遠になってくるのです。
続きは第8回でよろしく~。
アマチュア無線~プロ無線 そして衰退へ 第6回
- 2008年10月22日 10:37test
- 自分史
3通は予備試験として「無線工学の基礎」それに合格後本試験は「無線工学」「電波法規」「英語」「電気通信術」だったと思います。英語に不安を感じていましたが、業務英語もなんとかクリアーし、合格しました。英会話はありません。難関は電気通信術です。水産高校の「無線通信科」を卒業すると電気通信術を含め大半が免除になるのですが、「電子科」卒業の私は何も免除科目はありませんでした。電気通信術以外は合格しました。
電気通信術はなかなか上手になれず、その当時電気通信術を教える専門学校がありました。通学しようかと思いましたが、夜間大学に通っていたためいけませんでした。何回か受験しましたが、不合格になり、その内合格科目も失効してしまいました。ただ、和文モールス符号を覚えたのはよかったです。
その後無線の受験は自家用飛行機等に必要な特技「丙」を受験し、合格しました。
それから無線の受験はしばらく遠ざかるようになります。
ハムにおいては、144Mz帯が全盛期になり、「TR7200GⅡ」でモービルハムをやっていました。その頃からモービルハムが急速に増えてきました。雑誌でも「モービルハム」が発刊されたのもこの頃だと思います。「CQ2m」が飛び交っていました。
続きは第7回で
アマチュア無線~プロ無線 そして衰退へ 第5回
- 2008年10月 5日 17:24test
- 自分史
50MHz帯でのハムでコンテストの6mダウンコンテストに参加すると大勢の人が出るので大変楽しかったです。そしてQSLカードの交換それを集めてアワードにも挑戦しました。その当時色々のアワードが発行されていました。いくつかのアワードを獲得しました。「よみうりアワード」は最高でしたね。獲得すると読売新聞には掲載されました。しばらくするとCWに興味を持ち始めモールス通信をやってみたくなりました。そこで電信級アマチュア無線技士を講習会で取得しました。最初は短波受信機でワッチしていて交信方法を覚えました。そこで考えたのは、ハムでCWをやり、楽しみながら電気通信術が早くなれればいいなと思いました。目的は無線通信士のチャレンジです。
思い切ってその当時1.9MHZのCWのみの交信が出来る八重洲「FT101BS」を購入しました。確か給料の2倍位した高価のものでした。アンテナは屋根にGPをのせ、早速CWをワッチしたが、結構スピードが速いのです。エレキーを使っているのでなかなか内容がわかりませんでした。ただ、CWはQ符号や略語で世界中とQSOできるのはよいです。電話は若干の英会話が必要です。その内、圧下式キーでゆっくりですが、QSOに成功しました。その時の喜びは何ともいえません。その後バグキーやエレキー(ハイモンド社)を購入、挑戦しまたが、不器用のせいかうまく打てません。短点と長点の組み合わせが下手でした。それでもロシアや韓国等に成功、カード交換しました。
電話級や電信級では空中戦電力10W以下でしか出来ません。また14MHZは2アマ以上の免許が必要です。そこで2アマに挑戦2回目に合格出来ました。職域クラブ局にも加入、フィールドコンテストにも参加、キャンプ気分で結構FBでした。
その後3通に挑戦することになります。続き第6回で
アマチュア無線~プロ無線 そして衰退へ 第4回
- 2008年9月24日 21:43test
- 自分史
昭和41年当時の電話交換機の主流はH型かA型でした。ステップバイステップで上昇・回転をしパルス方式でダイヤルを回して接続します。入社の頃はよくダイヤルのオーバーホールをやりました。ガバナーで回転速度を調整しているため、速度が変わると誤接の原因となります。またいちいち交換手につないでもらう共電式の交換機もかなりありました。この頃の交換機はリレーを目で追いかけることが出来ました。修理・補修も自分達ですべて出来ました。その頃が懐かしいです。
その後クロスバー交換機の出現で大きく変わりました。つなぎきりでなく、リレーの共用、一度接続すると復旧し、次の接続を待つという方式です。電子交換機の出現までの長い間、全盛時代でした。
交換台には有紐と無紐があり、交換手の免許も二つに分かれていました。その後無紐だけになりました。
一方PBXの免許は日本電信電話公社の工事担任者認定証というもので、実務経験を要し更新をしなければなりませんでした。終身免許になったのは昭和60年位だと思います。
クラス変更を行うラッピング工具等電話工具バッグ確か8号小道具といったと思いますが、宅内工事にはかかせない物でした。電話線はPVC室内線、多対なども使っていました。
今や交換機はコンピュータに代わり昔のリレー式交換機の発想は捨て、コンピュータの知識があればよいことになりました。団塊オヤジの経験が生かされなくなったのです。通信関係の業務には多いです。
アマチュア無線においては昭和50年代はビギナーは50MHz帯が全盛でした。トランシーバーの出現で誰でも簡単に交信出きるようになりました。その当時パナソニックもリグを製作していました。RJX601です。アイコムのIC701、トリオのTR1100等持っているハムが多かったです。Eスポが発生すると遠距離まで短時間ですが、交信できるため大騒ぎでした。「CQ6m」が飛び交っていました。テレビで「ハローCQ」を放映していたのはこの頃でしょうか。タレントの藤村俊一、須藤典子さんがハムをやっていたのは有名なことでした。この頃からハム人口が一気に増加してくるのです。
続きは第5回で
アマチュア無線~プロ無線 そして衰退へ 第3回
- 2008年9月 4日 14:32test
- 自分史


電話級無線通信士の電気通信術は和文で、電報文を「朝日のア、いろはのイ」等と読み上げるだけです。これらを50音覚えれば100%合格します。学科は無線工学、電波法規ですが、記述式で理解できない用語が出てきて、暗記しかない個所もかなりありました。そういうことで、電気通信術は合格したのですが、学科は不合格になってしまいました。電気通信術の合格は一部合格として、次回学科だけの受験でよかったのです。ところが、学科を甘く見ていたため、連続して不合格になり、電気通信術の免除期間内にやっと合格しました。
次に目指したのは第2級無線技術士です。この試験は、実技試験はありません。予備試験と本試験(確か3科目)があり、予備試験はその当時、無線工学の基礎と一般常識の科目でした。大分後に一般常識は廃止されました。無線工学の基礎は2時間で5問の記述式、説明問題と計算問題です。高3の時に受験しましたが、ほとんど出来ずに不合格に終わりました。後で分かったのですが、殆ど既出問題で受験雑誌「電波と受験」と「電波受験界」に予想問題が載っているのがわかりました。かなりの確率で当たるようでした。受験者は大抵この雑誌を講読しているようでした。やはり、その当時から、資格試験にはコツがあるのですね。取得して、放送局に就職するのが夢だったのですが、かないませんでした。
就職試験で何社か受験し、不合格になり、最終的に電話関係の業務につくことになりました。社会人となってから、しばらくして、アマチュア無線との再度の出会いが始まります。
続きは第4回で
アマチュア無線~プロ無線 そして衰退へ 第2回
- 2008年8月10日 18:46test
- 自分史



高校に入学すると、アマチュア無線クラブに入部しました。そこには、その当時の名機 トリオ(現ケンウッド) TX88Aと9R59が並んでいました。部員達がハム用語独特の言葉でQSOをしているので私には何を話しているのか理解できないところがが沢山ありました。入部したもののハム免許を持っていないと交信出来ないため見ているだけでした。よく世間では無免許で交信しているアンカバーという人がいるという話も聞きました。ハム免許証は最初は1アマと2アマしかなかったそうです。しかも、非常に試験が難しく記述式でした。そういうことで、学業のほうもあり、1年の時はあまり部活動にも参加しませんでした。
2年になり電気磁気学、電気回路、電気実験を学ぶようになり、電話級アマチュア無線技士の資格があることを知り、図書館でテキストと問題集を借りて夏休みにかなり勉強しました。秋に受験することを決意し、運良く一発合格しました。自宅で開局したかったのですが、リグ(無線機)が高く、また自作の能力もなくしばらく開局はあきらめました。(807という送信管があり、シングル、ダブルで自作しているようでした)
その当時、アマチュア無線は「趣味の王様」といわれ、国内外のハム仲間とのQSO、そしてQSLカードの交換、収集によってのアーワードの獲得、アンテナや無線機の改良での技術向上等多彩のため、そのようにいわれたのでしょう。
その後無線の資格に興味を持ち始め、卒業するまでには2技を取得したいと思うようになりました。とりあえず漁業無線に使われる電話級無線通信士の資格の勉強をすることになりました。この資格は学科は微積分等の高等数学は必要なく、実技は和文の無線電話だけだったからです。
この続きは第3回で
アマチュア無線~プロ無線 そして衰退へ 第1回
- 2008年7月20日 09:27test
- 自分史
上記のタイトルで今までかかわってきた無線通信関係の団塊オヤジの変遷史を随時載せるつもりです。
私が小学生の時家にはテレビはありませんでした。5級スーパーというラジオがあり、家族で聞いていました。その当時よくこのラジオは何級と聞かれ「5級スーパー」というと高級だったそうです。5級の5は真空管の数です。私が聞いていたのは夕方やる「赤胴鈴ノ助」でした。たしか赤胴鈴ノ助の声は「参議院副議長の山東昭子さんか吉永小百合」さんだったと思います。後相撲で栃錦と若の花の対決が印象に残っています。夜はNHKの「3つの歌」は家族みんなで聞いていました。父は「浪曲天狗道場」を聞いていました。
中学生になって「技術家庭」という科目があり、ラジオの製作の実習があり、3級ラジオキットを半田を使って夢中になって製作した記憶があります。そして音が聞こえた時の喜びは何とも言えませんでした。その後鉱石ラジオやゲルマニウムラジオの自作をやり、だんだん「電波の世界」にはまっていきました。
家にテレビが入ったのは、中三の時です。テレビが入ると家庭のリズムが(娯楽)ががらっと変わってしまいました。テレビっ子といわれるくらいテレビ中心の生活の人も少なくありませんでした。私はそうではありませんでしたが、というのはテレビは一家に一台しかなくそのために番組のチャンネル争いよくありました。そのために殺人事件にまでなったこともありました。私は今でもテレビはさほど見ません。
話が横道にそれましたが、すっかり電波少年(以前そういう番組がありましたが、全然関係ありません)になり、家庭の事情で大学までの進学はあきらめ、工業高校の電子科に入学することになります。
高校に入ってからアマチュア無線との出会いが始まります。続きは第2回で。
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